子猫の瞳のように

パーソンズの歌じゃないんだが、
思い起こせば舞台の最中も、
そして既に日付が変わった今でも
感想をちゃんと書けないほど
ぐるぐる頭の中で色々なものが回っているわけで。
まだ散文的だけど一応感想みたいなものを書き記しておきたい。


結論からいうと、
もう一回観に行って少しでも納得したい自分がいるわけで。
こういう気持ちは「12モンキーズ」を観たとき以来かも。


幕開け早々から驚く。
一昨年観た「IRON」の時もそうだったが
メインの芝居が行われている舞台の周囲、
今回は舞台となる家の外の垣根や道端から
出演者がちらちらと動いている演出。
これの意味が今回はあとから徐々に
わかってくるのだが観客に緊張感を与える。


淡々と進む舞台。
盆周り(舞台のセットが回転するのね。回り舞台)する度に、
家の中と押し入れの中、
登場人物の視点と置かれている立場、
此岸と彼岸、現実とそうではない幻想の世界、
少しずつでも経過していく時間と不可逆に逆らう時間の流れ、
観客とキャストの距離といったものが
入れかわっていく。
それも少しずつ歪んでいく家という名の世界。
紛れ込む絶対的な死の臭いは「マルホランド・ドライブ」を
観たときの感覚に近いかも。
あの世の人にとってみれば
この世の人こそが死んでいるんではないかと
思わせるような空気が一瞬漂う。


カレーのニオイと昭和のカオリ。


自分を取り巻く世界の規定をするのは自分自身だ。
しかし、それに干渉する他人の世界の規定。
そこに生まれる関係性とそれに触れることにより起きる
やるせない感情に突き動かされる自分。
残された者の喪失感と残していった物達の喪失感が切なく交差する。


そして現実と主人公の関係性が明らかになった時に
家そのものが形を変える。
ワシが一番好きなギリアム作品「バロン」のラストシーン、
城壁の外に踏み出す主人公を見ているようだ。


やはりうまく表現できないな。
やたらに映画のシーンを引用しているし(汗
現時点での俺なりの結論のようなもの。
mixiで作家さんのリアルな現実を知っていたせいもあるが
私小説的なニュアンスを感じた。
もしそうだとしたら、
この作家は演劇という技法を使って
とても大きなものを越えようとしてるんじゃないかと思った。


少しネタバレ。
最後は観る者に主人公がその後どうなったのか
答えを委ねる形になっていたが
帰りに買った戯曲を読んで
作家さんの答えを知ってしまってちょっと後悔。
もう少し自分の中で答えを出してからの方がよかったな(笑)
未だに、
主人公も裸足だったのは意図的?だとしたら主人公は……。
玄関先にかかっていた鳥籠に意味があるのか?
あの海はどこの海なんだ?
が気になっているのであります。


主人公役の寺田さんの演技の強烈さに気圧された。
以前観た時に大沢たかお並みにダンディーだなと思っていた
有門さんの印象が強烈に変わった(笑)
警察官の設定は一寸ズルい(w


とてもすごい舞台です。
明日(2/3)も13時、17時の二回 公演があります。
ワシは所用で二度目を観られないけど
お時間ある方は是非!
(http://www.tobugeki.com/)